「古久」誕生の背景
統一した産地イメージを

組合が発足した昭和52年頃は、ようやく本格焼酎が見直されデパートなどでたびたび展示会や試飲会が催されていた頃でした。

組合でもデパート等との共同企画や販売開拓、新商品の開発など積極的に福岡県産本格焼酎のPRに努めましたが、福岡県の本格焼酎がほとんど知られておらず、非力さを感じることが度々ありました。これは焼酎の原料が多様で、統一した産地イメージが作り難かった面もありますが、福岡県産本格焼酎の柱となるような特徴を強く打ち出せるものがなかったからではないかと思われます。

やがて昭和59年から60年の焼酎ブームのピークを迎え、様々な原料の焼酎が生まれて、さらに福岡県産本格焼酎のイメージ作りを困難なものにしてしまったと思います。


刻々迫る国際化

ウイスキーと焼酎の税率格差の問題でイギリスからガット(GATT:関税及び貿易に関する一般協定)に提訴され、62年のガットの勧告により大幅な税制改正が行われることになりました。

いずれ世界の蒸留酒とまともにぶつかる時が来るのではないかと予測はしていたのですが、当時の焼酎ではグレードの点で太刀打ちできないという危機感を持っていました。そしてブームが去った後、平成元年の75%の大増税が待っていました。


固まった開発コンセプト

その年、組合では本格焼酎の原点に返り本物のグレードの高い商品を開発しようという計画が検討されていました。蒸留酒の付加価値を高めるには長期貯蔵しかないという結論の元に、何度も協議を重ねた末にようやく「古久」のコンセプトが固まっていきました。


3年を費やして、平成4年に初蔵入れ

貯蔵容器の製作から、貯蔵場所の選定、黒木町の協力による旧国鉄のトンネルの借用承諾、設備工事、国税局の理解を得て蔵置場としての免許取得など、蔵入れができるようになるまでに3年を費やしました。

そして平成4年11月1日に、5年後を夢見て初蔵入れを行いました。


これまでの私達の流れ

年度

ことがら

昭和52年

「博多焼酎部会」発足

昭和59年

焼酎ブームのピーク

平成 元年

「福岡県特産焼酎組合」に名称変更
「古久」開発基本計画策定

平成 4 年

初蔵入れ

平成 9 年

初蔵出し、「古久」誕生


「古久」の課題

平成9年に初蔵出しし、その後数量と販売先を限定しながら、市場に少しづつ送り出してきました。

市場に出た「古久」は、まだ僅かですが、その評価には確かな手応えを感じています。

「古久」は、年間最大で450個(1個30リットル入り甕(かめ)、1社当たり50個×9社)限りという、限られた量のために利益商品としてではなく、福岡の産地イメージを高めることと本格焼酎のグレードアップを目的とした商品です。そのために販売方法にも非常に厳しい規約を定めています。

しかし、本当に難しいのは商品のグレードをさらに高め、いかに長く維持していくかにかかっています。

福岡に「古久」ありと定着していくまでには、まだまだ息の長い努力を続けていかねばならないと考えます。